15才頃

20日ぶりくらいに父親と過ごす時間が多い日だった。

 

この人については、ずっと「何が楽しくて生きているんだろう?」と思っていて、その念は今でも変わらない。

親子であっても、人の生き方は唯一無比のユニークIDなので、本人の意思で選んだ生き方を批判するつもりはない。(虐待や暴力、刑事事案などは除く)

 

15才くらいまでは、父親以外の大人の男をほとんど見ずに生きてきたので、自分も将来は父親と同じ職業に就くのだろうなー、他にできそうな仕事もなさそうだしなーと思っていて、たしか高1の進路面談に臨むにあたって、それを具体的な像にしかけたこともあった。それが当時の自分としては「(身)分として」自然な成り行きに思えた。

 

結果はそうしなかった。(芳しくない結果に終わりそうだが)

 

で、ここからが本題。

今日父親と過ごした時間の中で、この、15才頃当時と同じ空気に包み込まれた自分を発見した。

 

(明らかに自分の意思ではない)その空気に包み込まれたまま残りの人生を生きるのも、自分の選んだ生き方の燃えカスにかすかに残った火種を消さないように息を吹きかけ続けて燃え尽切るのも人生。

 

父親と二人で晩飯を食った後までは前者の気分だったが、風呂に入った後に15才頃当時の空気を思い出した後にそれを否定する気持ちになった。

 

当時とは自分のリソースも外部環境も異なるし、選んだ結果を受け入れることを覚悟しての選択となるので、今この空気の元で選択をするのは躊躇する。

 

決断は数日寝かせましょうか。