猫ポルノ

一息つくための憩いの時間に閲覧するSNSに猫動画が頻繁に投稿されて大変迷惑している。

投稿しているのが猫コンテンツ投稿オンリーなアカウントならブロックすれば済むのだが、他の優良コンテンツ(犬コンテンツとか)もそれなりに投稿しているそれだとブロックしづらく、フォローしたままにしていると、大切な憩いの時に猫コンテンツを見させられる所謂猫テロに遭ってしまう。

現代の家猫は我々の社会生活に何の貢献もしていない。

犬は警察犬とか盲導犬とか番犬とか、投資した餌代・育舎維持費以上の金銭換算できるリターンを生産している労働者(獣)である。猫のような一部の好事家の金銭を溶かすためだけの生産性のない存在ではなく、実体経済に欠かせない一員なのだ。

 

そもそも猫は本当に存在しているのかという疑念もある。

例えば、アダルト指定コンテンツの定番であるポルノ映像がファンタジー(空想の物語)であることは周知の通りであるが、ポルノを観て空想の世界を旅していい気分になってスッキリして脳内物質の新陳代謝を図る以外、ポルノに有用性が無いこともユーザは承知している。

また、各人が背負った性別・性癖・信仰する宗教に拠ってポルノへの価値観は異なり、その存在自体をこの世に無いものとして処理している頭脳の持ち主も多い。全人類の過半以上がそうだろう。つまり、ポルノはその有用性を信じている人にしか見えない、まさに空想上・想像上の存在なのである。

 

何かに似ていないだろうか?猫である。

猫の可愛さは猫を可愛いと思える人の頭脳の中にしか存在しておらず、そうでない人にとっては人間社会に寄生する害虫と等価である。

「働かざる者、食うべからず」という言葉の意味は、労働以外の手段で財を得る者を排除するための社会主義のスローガンで、要は不労所得を禁じる価値観である。ポルノの主要演目である性行為あるいはその周縁演目において最大の資本は出演者の容姿である。容姿における肥満を避ける諸行為はギリギリ労働に属するが、元々の容姿に価値が無い人物がそれをしても無意味なことから、不動産のメンテナンスのような、資本がベースとなったオプションである。正数人数での性行為自体は誰でもしていることだが、その映像が有償対象となるか否かは容姿ありき、つまりその演者の「資本次第」ということになる。労働以外のものである「資本」を用いて財を得るポルノは社会主義において否定される行為でもあるのだ。

容姿という資本を用いることでしか(一部の)人々から対価を得ることができない猫もまた、労働で得る所得を以って社会を築くことを否定する、資本(ルッキズム)主義の権化のような存在である。猫が現代日本でこれだけ崇められているのは、日本が行き過ぎた資本主義の只中にあることの証左なのである。