一線を超えた言葉

犬コンテンツを見てたら、愛犬家による「この子は気が強いので、云々」との記述。

発信者当人が家族認定したイエイヌの性別を「男の子・女の子」と記すのはおお目に見よう。
口語を文語に変換するための脳の神経が、特定の語句について不全となる脳障害を持った個体なのだと思えばスルーできなくもない。そうした多様性を持った個性に寛容になるスキルは令和の時代を生き抜くには必須である。

だが、「気が強い」は一般名称+述語なので、表現上変換のしようがなくストレートにしか解釈できないので、当方の日本語警察機能が出動。

「気」とは人格の存在が前提として定義されている概念なので、人格のない獣のそれの場合は「気性が荒い」が適正。

 

特定対象への愛情量が一線を超えた人たちが日本語を破壊する場面に遭遇すると、暴力を目撃した時のような驚きを覚え、心臓に悪い。

人権と犬の散歩

公道(自動車道)を犬や猪が歩行(獣行)していて轢き殺しても運転者は無罪であるが、公道(歩道)で人の正常な歩行を困難にしている迷惑な散歩犬を駆逐する行為は動物愛護法違反になる恐れがある。

人が私有地でない歩道を正常に歩行する権利は人権の一部であり、かつ人権と不可分である。正常に歩行する権利を害する者が人間である場合、当事者間での(非言語的)民事調停を瞬時に締結できるが、相手が犬の場合それは不可能。よって自らの人権を担保するために非言語行動で犬の駆逐に至るのは不可避のはずだが、これを実行すると基本的人権を保障する憲法の劣位法である動物愛護法違反で検挙されるのは不条理である。

この劣位法優先の矛盾を解決すべきである。

3大欲求

ヒトの3大欲求と称される、食欲・睡眠欲・性欲。

近年は性欲の代わりに承認欲が台頭しているが、性欲は M/F/L/G/B/T 各性別において未だに根強い人気があり、3位圏外に落ちる気配はまだ見えない。

それぞれの欲求の対象について考察してみよう。

 

・食

対象は有機物だが、ここ数世紀は生きている動物を仕留めて肉や臓物を生で食らうことも減り、専ら火を通した穀物や肉片などがそれに当たる。稀に生の魚を食らう習慣のある地域も有るようだが限定的だ。

基本は、静止している加熱して無毒化した有機物がその対象だと定義していい。

 

・睡眠

対象は時間なので形が無い。時間は時計のような測定装置によって存在しているかのように誤認されているが、誰もその存在を証明できていない。左様なものを定義することは修士号すら取得できていない小生には困難なため本稿では割愛する。

 

・性

種の保存本能が由来なので、原則として異種は対象外となる。稀に異種や概念が対象となる症例が有るが、バグとして例外処理として問題なかろう。

ヒトの同種となると当然選択肢はヒトに限定されるわけだが、ヒトには人権という法律の上位概念の憲法(無い地域もある)で担保された権利が付与されているので、ヒトを対象とする性欲は実務的にも法律的にも参加者全員の合意なく実行は出来ない。

毎日3回の食欲、同1回の睡眠欲は対象の合意が不要なのに対して、性欲は人権保有者である対象の合意が必要となる難易度の高さゆえ、無償で実施に至るには当事者たちが無知であるか貨幣および非貨幣対価との交換が条件になっている事例が複数観察されている。

猫ポルノ

一息つくための憩いの時間に閲覧するSNSに猫動画が頻繁に投稿されて大変迷惑している。

投稿しているのが猫コンテンツ投稿オンリーなアカウントならブロックすれば済むのだが、他の優良コンテンツ(犬コンテンツとか)もそれなりに投稿しているそれだとブロックしづらく、フォローしたままにしていると、大切な憩いの時に猫コンテンツを見させられる所謂猫テロに遭ってしまう。

現代の家猫は我々の社会生活に何の貢献もしていない。

犬は警察犬とか盲導犬とか番犬とか、投資した餌代・育舎維持費以上の金銭換算できるリターンを生産している労働者(獣)である。猫のような一部の好事家の金銭を溶かすためだけの生産性のない存在ではなく、実体経済に欠かせない一員なのだ。

 

そもそも猫は本当に存在しているのかという疑念もある。

例えば、アダルト指定コンテンツの定番であるポルノ映像がファンタジー(空想の物語)であることは周知の通りであるが、ポルノを観て空想の世界を旅していい気分になってスッキリして脳内物質の新陳代謝を図る以外、ポルノに有用性が無いこともユーザは承知している。

また、各人が背負った性別・性癖・信仰する宗教に拠ってポルノへの価値観は異なり、その存在自体をこの世に無いものとして処理している頭脳の持ち主も多い。全人類の過半以上がそうだろう。つまり、ポルノはその有用性を信じている人にしか見えない、まさに空想上・想像上の存在なのである。

 

何かに似ていないだろうか?猫である。

猫の可愛さは猫を可愛いと思える人の頭脳の中にしか存在しておらず、そうでない人にとっては人間社会に寄生する害虫と等価である。

「働かざる者、食うべからず」という言葉の意味は、労働以外の手段で財を得る者を排除するための社会主義のスローガンで、要は不労所得を禁じる価値観である。ポルノの主要演目である性行為あるいはその周縁演目において最大の資本は出演者の容姿である。容姿における肥満を避ける諸行為はギリギリ労働に属するが、元々の容姿に価値が無い人物がそれをしても無意味なことから、不動産のメンテナンスのような、資本がベースとなったオプションである。正数人数での性行為自体は誰でもしていることだが、その映像が有償対象となるか否かは容姿ありき、つまりその演者の「資本次第」ということになる。労働以外のものである「資本」を用いて財を得るポルノは社会主義において否定される行為でもあるのだ。

容姿という資本を用いることでしか(一部の)人々から対価を得ることができない猫もまた、労働で得る所得を以って社会を築くことを否定する、資本(ルッキズム)主義の権化のような存在である。猫が現代日本でこれだけ崇められているのは、日本が行き過ぎた資本主義の只中にあることの証左なのである。

不幸学

不幸とは、幸せでは無い状態=幸せの相対的な評価(例/幸せレベル:マイナス10)を示す状態ではなく、絶対的な評価基準があるという仮説。

 

広く認識されている言葉の定義(Weblioより)は以下。

 

happiness:幸福、満足、喜び、幸運、幸せ
unhappiness:不幸、不運、みじめさ、悲哀

 

世の中には不幸が幸福の乗数倍存在するのに、なぜ人はそれを明確に定義せず、幸せのオポジットとしか扱わないのか。

もっと不幸を明確に定義する「不幸学」というような研究領域があっていいい。

不幸は幸福の敵ではなく、独立した存在・概念であるという仮説を研究してほしい。

 

 

ここは私の居場所ではない。の英訳

ここは私の居場所ではない。

 

これを英語でなんと言うかネットで調べてみた。直訳は検索では引っかからなかったが

 

最近は

There's no place for me here.
ここには私の居場所がない。

 

次近は

I feel like I have nowhere to go.
どこにも自分の居場所がないような気がする。

 

他は似た意味も併せて順不同で以下。

 

I don't belong anywhere. /
There's no place where I can be myself.
私の居場所がない。

 

You don't belong here.
ここはあなたの居場所じゃない。

 

I don't think I fit in here.
ここには自分の居場所がないように感じる。

 

I Don't Feel at Home in This World Anymore.
この世に私の居場所なんてない。

 

This is no place for your kind.
ここは君のようなものが来るところではない。

 

清潔と自尊心

清潔であること ー自身の身体、それを置く空間ー は

自尊心の向上に寄与する。

清潔でないことは、そうでない結果に自身を誘導する。

 

自尊心が良好だと、同類と交わる可能性が高まるが、

そうで無い場合、その可能性はとても低くなる。